3/18 できることってなんだろう
最近つよく思うんです。
先日、「生まれた時からアルデンテ」をすこし読みました。(いまのわたしと同い年のときに書かれた本だそう!)
ビックリしちゃったなあ。
ごはんを鋭く楽しく食べてきたら、感性も興味もどんどん膨れ上がるんですねえ。
ごはん食べることは目的ではなく生きる手段というのはよく言いますし、超わかるけど、あれだけごはんを思える人うらやましいなあ。
わたしの人生はなにができるかなあ。
みんななにかしらのフィールドで生きている気がする。
とくに、自分はずっと音楽の領域にいて、たくさんの、音楽をずっとしている人を見てきました。
本人たちは全くそんなこと思ってないと思うんだけど、つまりほんとに生活の音楽でしかないというか、趣味だと思うんだけど(その話についても今度しっかり書きたいな)、
それでもやっぱり、すごいんだあ。
そういうのをみると、この人は音楽やってて良かったなあ音楽やっててほしいなあと思う。
そういうの、自分はなにがあるかな。
表立ってわたしが触れられる人が、あからさまに「その道の人」だからそう思うだけだと思うんですけどね。
生涯で、自分はなにをしよう。
人生は長いので、1つというわけではないんだろうけど、なぜかみんな1つこれというものがある気がする。
見つけたいな。
いまのところ人生のテーマは、しあわせな家庭を築きたい、ということにあります。それを貫きたいな〜〜
なんでもない生活を営みたい、普遍的な「生活」を。。
と、最近おもいます。
ただ、やっぱりなにかしら、文化的なフィールドでの爪痕、残したいね。へへ
2/19 読書
人に好きな本をおすすめするのは非常に、自分を曝け出すみたいで、やりづらいことだ。
そして、それを読むことって、ほんとにすごいことだと思う。なかなかない。
押し付けたくないし、押し付けられたくないし、無理に褒めるのも嫌だし、気まずいし
みたいな中で、オススメのものを体験するのはたいへんつらい。おいしいお店に行くとか好きな映画を見るとか好きなバンドを聴かせるとかも然り。
そしてやっぱり、それが合わないことが何だ!と思えるようになった。
2/13 おいしいもの食べるのが一番心に良いのかも
心の貧しさ。
昨日、大先輩におごりにおごっていただき、良い日本酒と良いおつまみをたらふくいただいて、ベロベロ帰宅(代行代まで出してくださった!)し、ちょっとゲーしてから寝まして。
貧乏学生、セブンで買うお酒は淡麗だし、日本酒は近所の酒蔵のものだけ飲んでますふだん。いやああれおいしんだよねえ。
淡麗も好きだし金麦も好きだし、黒ラベルも好きだし。味の差がわからないです
しかし昨日飲んだお酒たち、本当に美味しかったなあ〜。
もちろん近所の、ザ大学生向けみたいな大衆居酒屋で食べる唐揚げとかも大好きなんだけどね。
基本それでぜんぜん構わないと思うんだけど、心の貧しさってやつが染み込まないようにしたいなあとおもいます。
できるだけ安いもの、という考え方は悪ではない。
良し悪しってのはないから。
でも、やっぱ少しくらい、贅沢することも大事なのかもとおもいます。
きのう、その大先輩とお話ししてて、たいへん共感したのが
全身お安い服を着ているとしても、靴とか財布とか上着とか、それだけでいいから1つ良いものを持つべき
という考え。
べき〜?というのもなんか押し付けがましいかもしれないけど
わたしはそう思うな〜てくらいだけどね。
服も靴もGUだらけだけど、たまにちゃんとした服も買うし、まあまあ良いお値段の靴も持ってます。そういうことが、なんか、自分の中で大切な気がします。
全部高いものにする気はないんだけどね〜お金もないし。高いからといって良いわけでもないし、安いからといって悪いわけでもないので。
あくまで、自分の中の「良さ」メーターみたいなものは、値段にある程度左右されずに、ちゃんと持っていたいなということです。
最近歌詞をカリカリ書いていて、
ライブが近いものでして。
こう、なにかコレっていうテーマないと書けないタイプなので毎回大変です。
いまは、言葉について考えながら書いています
なんの意味あんだろな〜とも思うが、バンドって楽しいなと思っていたい。
思ってるよ。
おわり!
2/9 むかしあったもの・いたひと
昔いたひとに会えない。
死を扱うと、途端にみんな白々しくよそよそしくなるけど、結構身近だし、デリケートではあるがありふれてる話だから、もっとちゃんと話せる気がする。
わたしにはおじいちゃんが2人いる。
1人は11のときに、1人は19のときに死んでしまいました。
どちらもガン。めっちゃベタなこと言うけど、ガーンて感じでしたマジでな。
ちなみにおばあちゃんも19のとき、1人亡くなりました。旦那が死んで数ヶ月後にお風呂で心臓が止まっちゃったかなんかで倒れて、亡くなっていたそう。寒くなかったかなあ。
なお、もう1人のおばあちゃんは元気元気!うれしいかぎりです。
19のときに亡くなったおじいちゃんを、わたしは身内の中で特に好きでした。身内の中で特に好きってなんかちょっと嫌なにおいのする言葉だけど、真実。
おじいちゃんとのツーショット写真があって、わたしは1歳くらいなんだけど、めちゃくちゃいい笑顔してるんだこれが。好きだったんだなあ。
おじじ(こう呼んでいたので以下これで)は、ものすごくよく食べる人で、一度手術して胃が三分の一かなんかになったのにめちゃくちゃ食べていた。
でも、末期になって、ぐんぐん痩せて、久しぶりにお見舞いに行ったとき、ショックすぎて、バレないようにたくさん泣いてしまった。
足をもんであげたんだ。
おじじは死ぬ直前、携帯電話を託された。というかずっと持ってたんだけど使ってなかったんです。入院してからメールを覚えて、送ってきてくれてました。
一通目から、誤送信の白紙のメールまですべて保存してある。
おじじは、病室の窓から赤とんぼが見えますだとか、見えませんだとかばっかり送ってきていたけど、あるひ、お家に帰りたい的なニュアンスのメールが来た。
お家に帰りたい。
いまもおじじが死ぬときのことは鮮明に覚えている。
いよいよやばいという電話を受けて、1時間半かけて帰省、病院直行したら、ほんとに目も口も開けっぱなしで閉じられなくて
でもわたしや姉が声をかけるとほんのちょっと反応してくれた。いまも泣いている
病室に我が家族4人が揃って、なんかそれも久しぶりのことだったんだよなあ。
夜までそんな状態が続いて、(電話は朝だった)今日はもう遅いからおばあちゃんは家に帰そうってなって、我が家族とおじじだけが病室に残った。それまでおじじの体のどこかしらをずっとさすってたわたしも、適当におにぎりとか食べて、油断してたのしく話していて。
「わたしこないだ短歌大会に出したんだよね〜!」というしょうもない話で家族一同笑ってたら、「あれ?!おじじ息してなくない?!?!」
おじじが死ぬ瞬間、わたしは短歌大会に短歌を出したとかいう話をしていた……しかも落選した。
これは一生忘れない。あの病室、悲しみすぎて逆に明るくなっちゃった家族4人、その笑い声の中なくなった祖父、死に目に会えなかった祖母。
むかし、なんてことなく会えていたひとに会えない。
当たり前のことではあるんだけども
おじじとおばばが住んでいたおうちは、住人を失い、結局取り壊された。だからもう、あの家に行くこともできない。
人が死ぬというのは当たり前のことなのに、ほんとにすぐ隣にあることなのに、これまた当たり前だけど慣れることがない。
会えないこと。
会いたいひとに、どうやっても会えないこと。
せめて悔いなく生きて〜〜と思います。自分も。
着地点がわからないんですがそんなこと思いました。
会ったこともない、そしてもうこの世を去ってしまったから会うこともない人を好きになってしまったので、たまにこういうこと考えてしまうんだなあ
2/8 よしあし
その程度の音で集中できないのか!と言われたらそれまでですが…元より真面目な学生ではあるので、ここまでの頑張りに最後までおんぶに抱っこでいきたい。過去の自分に背中を押してもらう。
先日、あたらしく出たデータ(出たデータってなんか嫌な語感)が、たまたま昔とっといたデータと繋がってくれて、急にすべてが意味あるものになった!数稼ぎみたいなデータもとっておくもんだなあ。
こういうことがあるから、こまめにいろんなことをしておくというのは、非常に大切なのだろうとおもう。
このように日々の生活を記しておくことも、いつか振り返った時に非常に重要な発見があったりしてな…
元来、根が暗く、すこし重めな人間なので、もちろんそれも良さであるのかもしれないが、すこし矯正したいと思っています。
最近、良し悪しの尺度みたいなものをよく考えるんです
なににも「悪し」はないのではないかと
うまく言えないけど
悪しなんてことはないのではないかと思うんです。何事も捉え方だし、本人が良いなら良いじゃ〜んというか
ルールさえ守れば良いんじゃ〜ん?というか
もし、わたしが彼氏の大好きなものをとうてい好きになれなくても、それはそれでしかないというか。そんなこと落ち込むことでもないし、一致してないといけないわけでもないし。はたまた、そんなことだけで「わたしたちって合わない」と思うことでもない。そして、「彼が好きなら好きでいなきゃ!」と思うことも、まあ、間違いではないのではないだろうか、。
みたいな。
ま〜きっと落ち込んじゃうんだけどね。なんとなくね。仕方ないとわかりながらね。
根が暗く、へんな方向にまじめだけど、それでも自分を信じている。
なんとな〜く、ブログかけたらいいな。
五味さんが好きだから真似しちゃった。くらいの気持ちで。